【新井信介講演会『日本書紀に書かれた宇治』DVD】(2016年11 月6日開催)

2016年11月6日「京都・宇治」で開催した講演会の長編DVDです。

全編で2時間57分(177分)の長編DVDです。

<レジメ>

1) 日本書紀とは? 成立年代 内容。  古事記との違い。   
真実を伝えているか?
中国の史書との関連

2) 宇治が最初に出てくるのは?  「国産み」「国譲り」 ・・・莵道彦とは? 

武内宿禰「内能阿曽」:
『紀』:景行天皇、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれた。
孝元天皇紀[、孝元(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とする。
『記』:孝元の皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれた。
孝元の皇孫。
  卑弥呼は、道教の巫女。許黄玉。(鏡と剣) 
   画紋帯神獣鏡 三角縁神獣鏡  方画規矩四神鏡  金銀錯嵌珠龍文鉄鏡  海獣神獣鏡

(垂仁時代)
 
天皇、於茲、執矛祈之曰「必遇其佳人、道路見瑞。」比至于行宮、大龜出河中、天皇舉矛剌龜、忽化爲白石。 謂左右曰「因此物而推之、必有驗乎。」仍喚綺戸邊納于後宮、生磐衝別命、是三尾君之始祖也。
「額有角人」「田道間守至自常世國」「勾玉」
  昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有 八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上探槎蕁

3) 木幡嬢女 と 鏡山

額田王(万2-155) やすみしし 我(わ)ご大君の 畏(かしこ)きや 御陵(みはか)仕ふる 山科の   鏡の山に
   夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありて ももしきの大宮人は  行き別れなむ。
倭大后; 天の原ふりさけ見れば大君の御寿は長く 天足らしたり(万2-147)             
青旗の木幡の上をかようとは、 目には見れども、直に逢はぬかも(万2-148)
 
応神「到坐木幡村之時、麗美孃子」
  仁徳 「時有海人、齎鮮魚之苞苴、獻于菟道宮也。」

4) 宇治 莵道 の起源
   宇美と 淮南子の宇宙

5) 聖徳太子と宇治  敏達時代 

6) 白村江の戦いと 宇治  665年 劉徳高は、なぜ、宇治に来たか?

7) 伊勢と宇治の関係  二つの宇治橋 宇治の「神」威 が 伊勢に移った。

<概要>

2020年が、日本書紀編纂1300年ということで、宇治でも、この年を祝いたいとのこと。
日本書紀は、面白い。 日本人の文化と統治体を語るうえで、アイデンテイテイーとなる大きな柱になっています。
712年に成立した古事記との違いを整理すると、違いが分かってきます。
 古事記の始まりは、アメノミナカヌシ    日本書紀は、クニトコタチ
 古事記の終わりは、ウマヤドの誕生574年  日本書紀の終わりは、持統の退位697年 
日本書紀には古事記にない物語として、ウマヤドの成人から死、太秦と常世神 入鹿殺害   斉明の吉野宮   白村江の敗戦 近江大津京 壬申の乱 天武の「朱鳥」 持統の吉野行き   高市皇子の死 などが、あります。
古事記の完成は、712年なのですが、なぜ、ウマヤドの誕生以後の物語を書かなかったのか?
それから8年後には、日本書紀が完成しましたが、なぜ、持統の退位で、終わりにしたのか?
712年から、720年に、何があったのか?
この期間に、不比等たちが、史書の編纂作業で、改めて、日本列島の歴史を見つめているときに、大きな、国際情勢での重大事があったと考えるべきです。
それは、則天武后が作り上げた、「周」の滅亡です。 
始皇帝以前に戻そうとしていたのが彼女で、彼女の治世のときに、 国名の「日本」が承認されたのです。
その上で、717年の遣唐使 が肝心です。ここに、阿倍仲麻呂がいました。不比等の長男の宇合もいました。
また、
 「YAMATO」の音に、 漢字表記で 「日本」と、つけたのは、この日本書紀からです。
  それまでは、 倭、 山門、 大和 でした。
宇治に、何らかの「神」威を感じ、畏怖していたのが、3世紀末〜7世紀の列島の人間でした。 
福岡の宇美で生まれたとされるホンダワケ(応神)が、武内宿祢に連れられ、宇治で忍熊王を 破り、さらに、敦賀にいき、再び宇治方面に戻るとき、木幡で宮主宅媛と交わった。この後、宇治に都を造り、死後は、羽曳野に埋葬された(誉田丸山陵)。
 宇治とは、どんな場所だったのか? 「木幡」と、「鏡山」が、重要なキーワードです。
 古事記の編纂を命じたのは683年の天武ですが、その天武が崩御するとき、「朱鳥(アケミ トリ)」の元号が送られました。そのあと、ウノササラ(持統)が4年の称制を経て即位して、伊勢に行き、31回、吉野に通ったあと皇祖神アマテラスを作り出し、藤原京を造って、高市皇子の 死後に、孫とされる、軽皇子(豊祖父命)に、譲位しました。これが文武になります。
 日本列島で水稲の稲作が始まるのは3000年前(佐賀県の菜畑遺跡)ですから、持統の退位=文武の即位の697年までに、1700年の時間が流れていました。 3000年前というのは、殷周革命や、古代イスラエルの 成立とほぼ同時期です。
 この1700年の時間の流れはあまりに長い。日本列島では1万年以上続いた縄文人の上に、どれほど多くの人間が入り込み、溶けこんだのでしょう。
 BC221に、中国大陸で秦が統一し、孔子が求めていた理想の政治体制が実現し、法治主義を始めましたが、その秦は2代で終わり、「項羽と劉邦」の勝者である劉邦に、始皇帝の孫の 子嬰(父は扶蘇)から玉璽が渡され、そこから、漢帝国が始まった。 漢民族とは、このときの 政治体の成立から生まれた概念です。  漢では、8代の武帝劉徹のときに、儒教秩序が確立 します。この影響は、日本列島に及んでいます。
それが王莽によって壊れ、後漢の光武帝劉秀が再度、統一王朝を立て直した。(このときに 「金印」)。 その後漢も、黄巾の乱の後、三国志の時代になり、曹操の息子の曹丕が、後漢の 献帝から皇帝の地位を奪って魏を立て、その魏の2代目皇帝の明帝曹叡のいる洛陽に、邪馬台国の卑弥呼は、帯方郡を経て自分の使者を送っています。
 魏は司馬懿(仲達)の孫の司馬炎によって皇帝位が簒奪されて、晋になり、その晋は内乱と 匈奴系部族 侵攻で滅び、華北は五胡十六国の戦乱になり、華南では司馬懿の曾孫にあたる 司馬睿が晋皇室の最後の生き残りとして現在の南京の地に亡命し、東晋を立てた。五胡十六国は前秦が統一し、前秦と東晋の戦い(383年)のあとに、華北に北魏が興り、その北魏は東西に 分裂したあと、西魏を継いだ北周が、東魏を継いだ北斉を破って、まず華北が統一され、その 北周の将軍だった楊堅が簒奪して隋を立て、さらに南朝の陳も併合し、文帝として、595年に 泰山封禅し、統一を回復しました。
 その文帝の息子が煬帝楊広で、この人物のもとに、607年小野妹子が派遣されました。その 煬帝の部下 だった李淵が、次男の李世民に促されて興したのが、唐です。
 古事記の最後に書かれた「ウマヤドの誕生」とは、上記の中で、北周が北斉を滅ぼした時期に当たります。
 また、日本列島での持統の即位と、大陸で史上初の女性皇帝、則天武后の即位は、同じく、690年でした。
 日本の宮中雅楽は、始皇帝の治世を祝うものですが、則天武后は、始皇帝の即位前の周の時代の統治 概念である「徳治」を目指し、その姿勢は、娘の太平公主が引き継ぎましたが、彼女が死んだ年が712年で、玄宗李隆基によって、唐が回復した年でした。
 このときのまでの中国大陸での王朝の交替や政変を、日本列島の民がどう受けとめ、その 中から、どの ようにして、スメラミコトを誕生させていったのか、これは本当に壮大なドラマです。
 天武の后だった持統(ウノササラ)が、皇祖神アマテラスを作り出すときには、傍らには不比等がいて、地球史全体の視野に立って、日本列島に限定した、王権、あるいは、統治体をつくり あげるという、大きな使命がありました。これは、あたらしい民族の創出 でもありました。
 そのとき、シュメールやエジプト、ヘブライ、アケメネス朝ペルシャ、ギリシャ、ローマ、クシャーン、ササン朝 ペルシャなどからも、その背景を持つ人間が入り込んでいます。
 地球で氷河期が終わったあと、地勢や気候に順応して、各地で独自に生存手段を確立して、個々に自律・ 自立しながらも、原始交易で平和裏に遠隔地ともネットワークを保って、部族社会を構成していた段階から、 いつ、どのようにして、巨大王権(情報体系)が誕生し、それが、世界史の主流になっていったのか、この人類社会の発展の原理に立って、日本列島での、王権= 天皇の誕生も、きちんと考えてみたいと思います。
 日本の天皇家の祭祀には、本当に多くの要素が入り込んでいます。
それを、1つに、まとめあげたのは、鎌足〜不比等の親子です。
彼らの出現と、その歴史的意義は、狭い東アジアだけでは、とても語れません。 
鎌足は、日本書紀では、大化改新の前年の正月に、いきなり、神祇官に推薦されているの   です。
また、日本書紀には、百済の最後の王、義慈王の弟のギョーキや、高句麗の淵蓋蘇文の息子の男生、新羅の文武王の息子(金霜林)が登場し、 
特に664年の条には、淵蓋蘇文の遺言まで載せ、その翌年に、唐の占領軍司令官にあたる 劉徳高が宇治で、閲兵していることまで記載しているのです。
このことを、これまでの歴史学者は、まじめに受け止めていないのは、本当に、悲しいことです。
その翌年の666年正月に、唐の高宗李治が泰山封禅し、旧唐書の劉仁軌伝では、そこに 「新羅・百済・倭国・耽羅の酋長が出席している」と記します。このときの倭国の酋長とは、はて、これは誰だったのでしょうか?
木幡神社の伝承では、大化改新の前の643年に、宇治の木幡に天神が現れ、大化改新後に その木幡に、鎌足が天神を祀っています。その地は、671年に、大海人が天智に抗議した後、 大津京に戦いを挑む決意をして、勝利を請願した地でもありました。
 明治維新以後、伊勢神宮の主祭神アマテラスが、日本列島と日本民族では、すべての「神界」の頂点にたつ神とされるようになりましたが、その伊勢の内宮の前に、五十鈴川が流れ、そこに架かる橋が、宇治橋です。
 伊勢が独自の領地をもったのは646年で、この年に、日本で初めての橋、宇治橋が、宇治川に架けられ  ました。そのときから伊勢に、社殿が徐々に準備されていき、8世紀に入って、伊勢に宇治橋がかけられた  あとは、本家の宇治橋のある、宇治では、それまでの「宇治の役割」が、完全に変わっていったようです。
そして、平安時代になると、
宇治は、完全に「別業の地」となり、平安貴族にとって、今生とは違う、もう1つ別の人生を考え、感じ入る土地になりました。
  

販売価格は、通常価格「4000円」(瓊音倶楽部会員の方は、「2000円」)でご提供します。尚、恐縮ですが、別途送料300円を頂戴します。

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